◆怪談 阿瀬渓谷の白い猫

これは今年ではなく6年前の出来事です。けっして忘れることができない体験でした。1994年8月4日、真夏の日差しが容赦なく照りつける、アスファルト道路ですぐ目玉焼きができそうな暑い暑い日のことでした。その日は兵庫県下では数の少ないオナガシジミを探しもとめて、但馬地方で最も深い渓谷である阿瀬の谷を分け入っていました。車で上がれる最高地点から、急流沿いに連続する神秘的な滝の数々、うっそうとした森、手を合わさずにはいられない毘沙門天、山道に横たわる伝説の大岩、急斜面に広がるトチの原生林、山中に忽然と現れる明るい湿地帯、とめまぐるしく変化する景色を楽しみながら、はたまた驚きながら、息を切らしてのぼっていった先にその村はありました。いや正確にいうなら、かつて村だったところがありました。この村こそ数百年前から開発されてきた金山(“かなやま”ではなく“きんざん”または“こんざん”と読みます)の集落跡です。最盛期には数千人が金を掘っていたという歴史のある村です。昭和30年頃まで何とか数家族がこの地にとどまって、持ちこたえて暮らしていましたが、積雪が3mをはるかに超える厳しい冬や、荷物はすべて人の背によらなければならない環境では、高度成長のはるか以前に歴史の幕を引かなければならなかったことは、ある意味ではやむを得ないことかもしれません。集落の中心にあった小学校の校舎もくずれ、かつては多くの子供たちに夢をあたえ続けていたオルガンも原型をとどめないほど壊れているのが目に入ります。やがてはすべて緑の波にのみこまれて行くことでしょう。最後に村をはなれた人たちはどう感じたのでしょう。数百年の歴史を閉じる瞬間に立ち会う気持ちはどんなものなのでしょう。などと感傷的な気分に浸っていると、木々の枝のこすれる音や、せせらぎの音、鳥の鳴き声などが重なって、多くの人々のかなしみ、うめき、ざわめきに聞こえるようでもありました。

そんな時、数10m先のうす暗い藪の中をさっと動いた白いものがありました。何だろう、と注意してよく見てみると、それは大きな白い猫がじっと私を見つめています。金縛りに遭ったように数秒なのか数分なのか、今となっては思い出せない時間が流れ、ふと我に返った瞬間、白い猫はさっと身をひるがえし藪の中に消えて行きました。その時は、あー白い猫がいる、とは思いつつ、猫ではなく人に出会ったような、それも遠い記憶のとても懐かしい人に出会ったような不思議な感じをいだきつつ村を後にしたのでありました。

帰り道、すこし冷静になって先ほどの出合いを思い起こしてみると、何であんなところに猫がいるのか?一番近い民家まで険しい山道で4kmも離れているのに飼い猫がいるわけがない!野生で生きられるのか?そんなはずがない!!との考えに至ったとき、背筋に冷たいものが走りました。

たったこれだけのことで、何が怪談だ、と思われる方もおられるでしょう。でもそんな方にこそ一度、この阿瀬渓谷の金山集落跡をたずねていただきたい。私と同じような体験ができるかもしれませんよ。とにかくミステリアスゾーンであることは実感できると思います。


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